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芸人

1999810

宇佐美 保

 最近の、テレビなどでの、『ミッチー・サッチー』論争には呆れかえってしまいました。

こんな事を、テレビで垂れ流していて良いのでしょうか?

 

 そもそも、この論争の発端は、『ミッチー』こと女剣劇士の浅香光代氏が、『サッチー』こと野村沙知代氏に“私は、あんたなんかと生まれが違うのよ、あんたなんかは、たかが女剣劇士じゃないの!”とか言われた事にあると、ミッチーは語っていました。

そして、ミッチーは、“私は、女剣劇士である事に対して、誇りを持っている。なのに、こんな事を言われては、堪忍袋の緒が切れてしまった。”旨を語っておりました。

 

 このミッチーの発言は、オカシクはありませんか?

ミッチー自身が、自分の職業(女剣劇)に誇りを持つ事に関しては、非難もしませんし、又、誇りを持つ事は大変大事な事と存じます。

(故作曲家黛敏郎氏も、ミッチーの才能を買っておられたようですし。)

 ミッチー、サッチー間での、二人だけの争いの場合は、女剣劇に対する誇りを、サッチーにぶっつけるのは、当たり前の事ですし、当然そうすべきでしょう。

でも、外部の人達には、ミッチーは、芸人なのです、やはりしがない女剣劇士なのです。

ですから、この発言を、テレビの前(お客様の前)では、してはいけないのです。

自分自身の心の中では、『女剣劇士の誇り』を大きく大きく育んで行くべきです。

けれども、公に対しては、あくまでも、ミッチーは、『しがない女剣劇役者』なのです、

 このギャップが大きければ大きい程に、『芸人』は、大きく育って行くのではないでしょうか?

 

 プロ野球の、かっての西鉄黄金時代の大投手、稲尾氏は、彼の父親の教え“稲穂は、実れば実るほどに、腰を低くする。”を有言実行されておりました。

三波春夫氏の“お客様は神様です。”も口先だけの念仏では無い筈です。

 

 それに付け加えさせて頂くなら、剣劇の真髄は、相手をとことん痛めつけずに、適当な所で、斟酌して上げる事ではないでしょうか?

(裁判にまで持ち込んでしまっては、剣劇の美学は何処に言ってしまったのでしょうか?)

それに、ミッチーは、御自身がマスコミ関係者達に“先生、先生”等と言われて、可笑しいと感じないのでしょうか?

(ミッチーは、何故“私は『先生』なんかでありません!”と拒絶されないのでしょうか?)

 

  もう何年も前から、落語家達は、テレビの前で、“師匠、師匠”と言われて、“当然!”と言う顔をしているのはどう言うことでしょう。

確かに、“師匠、師匠”と言われる前には、マスコミ関係者の落語家に対する応対は、酷かったのでしょう。

現に、大相撲の関取や、若いスポーツ選手などに対する、マスコミ関係者のインタビューは酷いものです。

スポーツ選手達は、若く、間近で見ると、未だ、あどけなさ等が残っていたりする為もあり、マスコミ関係者は、彼らを見下した態度で、又は、まるで自分の仲間か、後輩に語り掛けるように“今日の調子は、どうだったの。”とか言って平気で居ます。

スポーツ選手達は、視聴者である私達にとっては、『英雄』なのです。

なのに、私達にとっては英雄でもなんでも無い、アナウンサー達が、私達の大事な英雄を、見下した態度でインタビューするのは実に不愉快です。

(何故、関係者は、そんなアナウンサーに注意しないのでしょうか?)

 

 落語家達が、“師匠、師匠”と言われる前は、マスコミは、今の若いスポーツ選手達に対すると同じ態度を、落語界の所謂大御所にもとったのでしょう。

そして、マスコミに対して“俺の事を、「こさん」とか、「こさんさん」とか気安く扱ったら口も利かねえ。”とか「こさん」が宣言(?)して以来、マスコミは、どんな落語家にも、どんな場合でも“師匠、師匠”と言うようになってしまったように私は記憶しています。

 

 でも変ですよね、楽屋とか非公の場では、“師匠、師匠”で結構ですが、テレビなどの公の場で、“師匠、師匠”と云われて、当然といった顔をしている落語家達を私は実に不思議に思います。

 落語家も、自分自身の心の中に『落語家である誇り』を持つのは大事ですが、お客様の前では、『しがない落語家』なのでは?

 それに、歌舞伎役者、能役者等も然りではないでしょうか?

名門だとか、御曹司とか言われて、悦に云っているのは如何なものでしょうか?

やはり、歌舞伎役者とて、『川原乞食の末裔』である事をいつも肝に命じて、精進すべきでは?

 

 そして、『芸人』が、『しがない落語家』『川原乞食の末裔』であろうと、彼等が立派な『芸人』ならば、やはり、 (うわべを取り繕う『師匠』『御曹司』等の言葉を用いず) 心からの敬意をはらって、対応すべきです。

 

 確かに、私とて、時々『先生』等と呼ばれて気持ち良くなってりします。

でも、この感じこそが、とても曲者なのではないでしょうか?

 

 学校の先生を初め、議員、それにマスコミ関係の方々など等も、どうか、『先生』と呼ばれる事の害を自問して下さい。

 
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